こんにちは、るほりです。
今年のドラフト会議が終わりました。
中央大学の五十幡亮太選手は、日本ハムに2位指名されましたね!
2020年10月26日ドラフト当日の19時から放送された『ドラフト緊急生特番!お母さんありがとう』はとても感動しました。
五十幡亮汰の亡き母との約束は?
五十幡亮汰はサニブラウンに勝ったことがある?
この記事を読むことで五十幡亮汰選手について詳しく知ることができますよ。
五十幡亮汰の亡き母との約束は?
名前:五十幡 亮汰(いそばた りょうた)
生年月日:1998年11月26日(2020年現在21歳)
出身:埼玉県行田市
身長:172㎝
体重:67㎏
投打:右投左打
ポジション:外野手
経歴:行田東フェニックス(行田市立東小学校)→東京神宮シニア(行田市立長野中学校)→佐野日大高校→中央大学
五十幡亮汰選手は、小学1年生の時に行田東フェニックスで野球を始めました。
中学生の時には、陸上競技部に所属しながら、強豪のクラブチームである東京神宮シニアで外野手としてプレーし、U-15アジアチャレンジマッチに出場しました。
全国3位になったこともあるようです。
佐野日大高校では、1年夏から外野手のレギュラーで、2年冬からショート)を守りました。
走力はありましたが、スタートの切り方がうまくいかず、意外にも当時は盗塁が苦手だったようです。
高校時代は甲子園に出場することは、できませんでした。
中央大学に進学すると、1年春から出場し、ベストナインを2度受賞しています。
3年秋にはリーグトップの9盗塁を記録しています。
リーグ戦の打率は約3割で、打撃はまずまずのようです。
走力は50m5秒6の俊足で、盗塁はプロと比べても、トップレベルのようです。
守備も走力を活かした広い守備範囲で、こちらもプロでもトップレベルと言えるようです。
そして、ついにドラフト会議では、日本ハムから2位指名を受けました。
おめでとうございます!
《母との約束は?》
五十幡亮汰選手が小学校に上がる少し前に、母・恵子さんは腎臓がんを患い、体調を崩したそうです。
病状は、厳しい状態だったそうです。
母は、子供達にはずっと笑っててほしいという思いから、真実を伝えないことを夫である雅弘さんと約束したそうです。
五十幡亮汰選手は小学1年生の時に野球を始め、父がコーチを務め、家族は野球中心の生活だったと言います。
母は病と闘いながらも、いつも応援にかけつけたそうです。
その頃「僕、絶対プロ野球選手になるから、お母さん絶対試合見に来てね。」
と母と約束を交わしました。
小学2年生になると母のがんが再発し、母は入退院を繰り返しました。
母は、弱音を吐かず、強くて優しい人だったそうです。
そして母は、闘病生活の中、子供たちに手紙を書きました。
小学2年生だったは五十幡亮汰選手は、特別な手紙だとは気づかなかったそうです。
母は退院すると必ず野球の応援にかけつけ、運動会も体調が悪い中、かけつけたそうです。
2007年6月10日、突然の別れの日となりました。
姉・真奈さんのエレクトーンの発表会の日、母と自宅で待っていた五十幡亮汰さんはいつの間にか眠ってしまい、母はその隣で静かに息を引き取ったそうです。
8歳だった五十亮汰選手は母との別れを、なかなか受け止められなかったと言います。
母が亡くなったことを気づいた時には、母のためにも野球、勉強を頑張ろうと切り替えたそうです。
母は、笑顔でいてくれたので、自分も人前では悔しい顔だったり、悲しい顔をしないと思ってきたそうです。
そして、母への想いを胸に野球に打ち込んだそうです。
そんな五十幡亮汰選手ですが、高校3年生の時には、伸び悩み、自信を失い、野球に対する気持ちが薄くなった時期もあったそうです。
そんな時に、小学2年生の時にもらった、お母さんが遺した最後の手紙をお父さんが渡してくれました。
その手紙を読んだ五十幡亮汰選手は、お母さんとの約束を思い出し、改めて頑張ろうと思ったそうです。
母の手紙は夢を信じる勇気をくれたそうです。
プロを目指し、中央大学に進学し、努力を重ねました。
そして、ドラフト会議で五十幡亮汰選手は、日本ハムから2位指名を受け、プロ野球選手になるという夢を叶え、母との約束を果たしました。
母との約束を果たした五十幡亮汰選手は素晴らしいですね!
あきらめそうな時期がありましたが、あきらめず頑張れば、夢を叶えることができるということを教えてもらいました。
涙なしでは、再現VTRを見ることができませんでした。
五十幡亮汰選手は、ドラフト会議で指名された後
「武器である盗塁王をとり、走攻守揃ったフル出場できる選手になって活躍したい」
と話していました。
五十幡亮汰選手のプロでの活躍を期待し、これから応援したいと思います。
五十幡亮汰はサニブラウンに勝ったことがある?
五十幡汰選手は、中学生の時にクラブチームで野球をしていましたが、学校では野球のためになると考え、陸上部に入部しました。
中学3年生になると全国レベルの選手に成長しました。
全国中学生大会の決勝では、日本一を争う相手に、現在100m日本記録保持者であるサニブラウンさんもいました。
五十幡亮汰選手は、なんとサニブラウンさんを抑え、100m、200mの2種目で日本一に輝きました。
陸上で結果を残し、たくさんの高校から特待生として推薦の話があったと言います。
五十幡亮汰選手は「僕がしたいのは野球です。僕が行きたいのは甲子園です。プロ野球選手になりたいんです。母との約束なんです。」と迷わず推薦を断りました。
サニブラウン選手について五十幡亮汰選手は、
「彼に刺激を受けて頑張ってこられたっていうのがすごくあるので本当に感謝しています」
と語っています。
中学時代には「道は違うけどお互い頑張ろうな」とエールを交わしたそうです。
五十幡亮汰選手は、「1軍で活躍できる選手になって切磋琢磨して、お互いを刺激しあえる関係を続けていけたら」とも語っています。
刺激しあえる関係の相手がいるのは、素晴らしいですね!
2人の活躍を応援したいと思います。
まとめ
今回は、中央大学・五十幡亮汰選手についてお伝えしました。
五十幡亮汰選手は、日本ハムから2位指名を受け、小学生の頃からの夢、母との約束である「プロ野球選手になる」ことを叶えました。
なんと中学3年生の時には、野球のためになるという考えから陸上部に入部し、日本記録保持者であるサニブラウンさんを抑え、100m、200mで日本一に輝くという経歴を持っています。
夢をあきらめそうになった時期もありましたが、努力を重ね夢を叶えた五十幡亮汰選手に本当に感動しました。
これからの活躍を応援したいと思います。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。