こんにちは、るほりです。
根井三郎さんが話題となっています。
『命のビザ』で知られている当時の外交官の杉原千畝さんは有名ですよね。
根井三郎さんも杉原千畝さんと同じ外交官で、外務省の訓令に抗議しユダヤ人を救済した人物です。
杉原千畝さんと根井三郎さんによって多くの命が助かったと言われています。
素晴らしい功績を残された方々です。
根井三郎さんと杉原千畝さんについて調査していきたいと思います。
杉原千畝とは?『命のビザ』についても!
さきに、杉原千畝さんについて紹介したいと思います。
名前:杉原 千畝(すぎはら ちうね)
生誕:1900年(明治33年)1月1日
死没:1986年(昭和61年)7月31日(満86歳没)
出身:岐阜県武儀郡上有知町(現在の美濃市)
2度尋常小学校を転校し、卒業した古渡尋常小学校では全甲(現在の「オール5」)の優秀な成績で卒業しました。
旧制愛知県立第五中学(現・愛知県立瑞陵高等学校)に入学しました。
お父さんの好水さんは、息子の千畝さんに医師になって欲しかったようです。
しかし、杉原千畝さんは医師になるのが嫌で、京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)の入試では、白紙で答案を提出したそうです。
なんか、かっこいいですね!
杉原千畝さんは英語を学び英語教師になるつもりだったそうです。
お父さんの意に反して1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学しました。
お父さんの意に反した進学だったため仕送りもなく、早朝の牛乳配達など複数のアルバイトを掛け持ちしていたそうです。
しかし、米騒動が起こったことでアルバイトが次々と倒産し、学費と生活費をまかなうことができなくなってしまったそうです。
ある日、杉原千畝さんは図書館で偶然目にした地方紙の掲示で、外務省留学生試験の存在を知りました。
そして、猛勉強の末、合格を果たしました。
1919年(大正8年)11月、早稲田大学を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学びました。
1924年(大正13年)に外務省書記生として採用され、ハルビン総領事館を経て、1932年(昭和7年)に満州国外交部事務官に転じました。
1924年、白系ロシア人と結婚しましたが、1935年に離婚しました。
1926年(大正15年)、600ページあまりにわたる報告書『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、高い評価を外務省から受け、26歳の若さで、ロシア問題のエキスパートとして頭角を現しました。
日本外交きっての「ロシア通」という評価を得て間もなく1935年(昭和10年)には満州国外交官を退官しました。
関東軍から間謀(スパイ)になるよう強要されましたが杉原さんが拒否したことで、勤務することが事実上不可能になったためでした。
その後帰国し、知人の妹である菊池幸子さんと結婚しました。
そして、日本の外務省に復帰しました。
1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任しました。
杉原千畝さんは当初、念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定でしたが、ソ連側からの拒絶で叶いませんでした。
そのため、近隣のヘルシンキへと変更されました。
1939年(昭和14年)リトアニア・カウナス日本領事館領事代理に赴任しました。
リトアニアにおいては、1940年7月より数多くの主としてユダヤ系ポーランド人の避難民が日本通過ビザを得るために日本領事館へ殺到していましたがその大多数は日本政府が定めていた外国人入国による通過ビザの発給要件を満たしてない人たちでした。
しかも、外務本省からは要件を満たしていないものにも通過ビザを発給する許可を求めていましたが、否決されていました。
杉原千畝さんは、外交官としての服務規律と人命救助の間で葛藤し、一晩中考えたそうです。
しかし、最終的には人道主義・博愛精神に基づく独自の判断により、要件を満たしていない避難民に対しても、大量の日本通過ビザを発給しました。
日本通過ビザを受けた避難民はその後逃避し、その命が救われました。
杉原千畝さんは、ナチス・ドイツによって迫害された多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救ったといわれています。
杉原さんの発給したビザは『命のビザ』と呼ばれ、このビザで数われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上に及ぶと言われ、世界各国で活躍していると言われています。
海外では、チウネ・センポ・スギハラとも呼ばれるようです。
「ちうね」という発音が難しく、千畝さん自身がユダヤ人に音読みで「センポ」と呼ばせたとされています。
1947年、杉原千畝さんは帰国しましたが、独断でビザを発給したことの責任による外務省からの辞職勧告でした。
その後杉原さんはビザのことは自ら語ることはなかったといいます。
しかし、1968年8月に1人のユダヤ人から杉原千畝さんへ連絡がありました。
イスラエル大使館のニシェリ参事官でした。
ボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原さんに感謝の言葉を述べたそうです。
世界中の杉原さんに救済された人々は、杉原さんを探し続けていました。
翌年、彼らを救った功績から、ビザの受給者でもあるバルハフティク・イスラエル宗教大臣と面会しました。
1974年、「イスラエル建国の恩人」として表彰され、1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞しました。
2000年10月10日、日本国政府による公式な杉原千畝さんの名誉回復が行われました。
杉原千畝さんの『命のビザ』発給で多くの方の命が救われました。
杉原千畝さんでなければ、ビザが発給されず、多くの方が命を落としていたかもしれません。
杉原千畝さんは多くの方の「命の恩人」だったんですね!
すばらしい功績を残され、敬意を表します。
根井三郎とは?
第2次世界大戦中、ナチス・ドイツに迫害されたユダヤ系難民のため杉原千畝(ちうね)さんが発給した『命のビザ』を引き継いで亡命を手助けしました。
杉原千畝さんが国際的に知られている一方、根井さんの功績は日本国内でもあまり知られていないそうです。
わたしももちろん知りませんでした。
名前:根井 三郎(ねい さぶろう)
生誕:1902年(明治35年)
死没:1992年(平成4年)満90歳没
出身:宮崎郡広瀬村福島(現在の宮崎市佐土原)
広瀬尋常高等小学校尋常科(現在の宮崎市立広瀬小学校)を卒業しました。
長崎県立大村中学校(旧制)(現在の長崎県立大村高等学校)を卒業後、外務省留学生としいて外務省へ入省しました。
1924年(大正13年)3月に日露協会学校を修了しました。
根井三郎さんは日露協会学校において杉原千畝さんの2年後輩にあたり、外交官でした。
2020年6月、第2次世界大戦中に旧ソ連ウラジオストク日本総領事代理だった根井三郎さんが、ナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ人に発令したビザが初めて見つかりました。
宮崎市が2日に写真を公開しました。
『命のビザ』で知られる外交官だった杉原千畝さん発給のビザに根井さんが署名したものはすでに確認されていました。
今回見つかったものは、根井三郎さんによって発給された日本通過ビザでした。
杉原千畝と共に「命のビザ」でユダヤ人救済の宮崎県出身外交官 根井三郎発給のビザ初確認(MRT宮崎放送) https://t.co/1XQpXbTznJ
— takekin (@takekin10) June 2, 2020
外務省は1941年、杉原さんが発給した通過ビザを再検閲し、要件を満たさないものは日本行きの船に乗せないようにと根井三郎さんに命令しました。
これに対し、根井三郎さんんは「国際的信用から考えて面白からず」と拒絶したそうです。
根井三郎さんは杉原千畝さんと同じハルビン学校の出身で、杉原さんとは旧知の仲でした。
杉原千畝さんの功績も根井三郎さんへリレーのようにバトンがつながったことで、多くの方々の命は繋がっていったんですね!
「命のバトン」と呼ぶ研究者もいるそうです。
根井三郎さんも素晴らしい功績を残されており、敬意を表します。
まとめ
今回は、杉原千畝さんと根井三郎さんについて調査しました。
わたしは、杉原千畝さんのことは、特集されていたテレビを見たことがあったので、知っていました。
根井三郎さんについては、恥ずかしいですが知りませんでした。
杉原千畝さんは、外務省訓令に違反して、ナチス・ドイツによって迫害された多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救ったといわれています。
杉原さんの発給したビザは『命のビザ』と呼ばれ、このビザで数われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上に及ぶと言われ、世界各国で活躍していると言われています。
根井三郎さんも外務省の訓令に抗議し日本行の
船に乗船許可を与えユダヤ系難民の亡命を手助けした外交官でした。
バトンがつながったことで、多くの方の命がつながっていました。
戦争や迫害など、過去にはたくさんの辛い歴史があります。
今も、アメリカ等では人種差別などもあり、悲しい現実があります。
杉原千畝さんや根井三郎さんのように、命のバトンがつながっていく社会、世界になるよう一人一人が先人の行動を見習っていきたいですね!
新型コロナの影響もあり、差別などもあってると言われています。
今一度、相手の立場に立って考えたり、行動する人が増えることを願います。
わたしも、努力していきたいと思います。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。