こんにちは、るほりです。
木下ほうかさんは、個性的な俳優ですよね。
悪役をされるイメージです。
そんな木下ほうかさんですが、この下ほうかさんを検索すると、若い頃はヤンキーだった、献血が趣味、骨髄バンク、骨髄移植などのキーワードがありました。
そこで
木下ほうかの若いころはヤンキー?
木下ほうかは献血が趣味?
木下ほうかは骨髄移植の経験者?
についてお伝えしていきたいと思います。
この記事を読むことで、木下ほうかさんについて詳しく知ることができますよ。
木下ほうかの若いころはヤンキー?
名前:木下ほうか(きのした ほうか)
生年月日:1964年1月24日(2020年10月現在56歳)
出身地:大阪府大東市
所属事務所:株式会社カクタス
木下ほうかさんがヤンキーだったかという結論を言いますと、ヤンキーではなかったようです。
高校時代は剃り込みを入れたいわゆるヤンキーファッションだったようですが、不良であったというよりは当時の流行のファッションをしていただけだったようです。
流行に敏感で、たまたまヤンキーファッションが流行ってただけだったんでしょうね。
1980年、16歳の時に井筒和幸監督の映画『ガキ帝国』のオーディションの新聞広告を見て応募し、合格しました。
同作品で俳優デビューしました。
その後大阪芸術大学を卒業、吉本興業大阪本社に入社し、吉本新喜劇の団員となりました。
しかし新喜劇では目立つ存在になれず、新喜劇低迷期と重なったこともあって3年で退団したようです。
1989年、俳優を目指し、井筒監督を頼って上京しました。
Vシネマを中心に活動していたようですが、業界関係者やプロデューサーなどの飲み会に積極的に参加し、名刺を配るなどして人脈を広げていったようです。
どんな業界も人脈は大事ですよね!
また、あえて才能のある後輩を紹介することで関係者の信頼を徐々に獲得していったというので、すごいですね。
2014年放送のドラマ『昼顔~平日午後3時の恋人たち~』は、配布した名刺がきっかけで出演することとなったようです。
人脈作りの努力が実ったんですね!
そして同年放送開始の『痛快TVスカッとジャパン』で演じた「イヤミ課長」がブレイクしました。
決めゼリフである「はい論破!」は2015年の新語・流行語大賞の候補50語にノミネートされました。
近年はテレビドラマやバラエティ番組への出演も増えています。
木下ほうかは献血が趣味?
木下ほうかさんの趣味は献血とバイクで、特技はキックボクシング、空手です。
ロレックスのコレクターとしても知られているようです。
意地悪な役など悪役が多いですが、ビールや家族と仲良くドライブする車のCMがやりたいと思っているようです。
やはり、献血は趣味のようですね!
木下ほうかさんは25歳ころから献血を始め、2020年10月2日時点で、60回ぐらい献血をしているようです。
献血をするようになったきっかけは、ひまつぶしだったそうです。
あと、献血する場所にドーナツとかアイスとか食べ物があったり、雑誌も置いてあったりするのもよかったそうです。
また、「献血することで、自分のちょっとした健康状態も知ることができるため、人の役に立つのに、そんな付加価値があるということで、行くようになった」とインタビューで答えられていました。
1回献血すると、一定の期間を置く必要があるようですが、それを過ぎたら行っているそうです。
そろそろできるなって頃になると、「血を抜かれたい」って思うそうです(笑)。
木下ほうかさんは現在56歳なので、25歳の時から31年間で60回、年に約2回のペースで献血されているようです。
人の役に立てることをされていて、素晴らしいと思いました!
木下ほうかは骨髄移植の経験者?
次に木下ほうかさんは、骨髄移植の経験者かどうかについてお伝えしていきたいと思います。
木下ほうかさんが骨髄移植の経験者と聞き、私ははじめ、木下ほうかさんが骨髄移植が必要な病気になり、移植したのだ思いました。
ところが、骨髄移植が必要な人に提供した経験者でした。
25歳から献血に行きだし、骨髄移植のポスターを見て見ぬふりしていたそうです。
大学時代にお付き合いしていた方が、29歳という若さで『急性骨髄性白血病』で亡くなられたという経験もお持ちでした。
木下ほうかさんは、40歳でドナー登録したそうですが、ちょっと難解な話でもあり、簡単に登録できることも知らなかったそうです。
ずっとポスターに心は引っかかっていながら献血を続けていて、あるとき、「実際、どんなことするんだろう」って調べたら、登録自体はメチャクチャ簡単だとわかったそうです。
だから、実際に提供するかどうかは決めず、登録だけしようと思ったそうです。
すぐに通知が来る人もいるそうですが、登録して5年かかる人もいるそうです。
木下ほうかさんは登録して5年弱で通知がきたそうです。
登録時にはいい加減な気持ちで、ほぼ忘れかけていたそうですが、通知が来て「じゃあ、やってみるかな」となったそうです。
木下ほうかさんは
「動機は何だっていい。どっちみち、忘れた頃に通知が来るなら、今の自分の気持ちなんて当てにならない。まして、登録当時は元気でも、数年後には病気になっていて骨髄提供できる状態じゃないかもしれない。」
と語られています。
通知があってもすぐに決まるわけではなく、検査があるそうです。
ドナーの適合者が複数のこともあり、グレードで決まるそうです。
木下ほうかさんは一番グレードが高かったんだそうです。
そこで、木下ほうかさんはこんな風に思ったそうです。
「きれいごとのようですが、人の命を救える可能性があるって、すごい面白い作業だなと思いました。死にかけている、もしくは生きるか死ぬかギリギリの人が、自分がわずかな手間をかけることで生きながらえることができるなんて、すごく面白いって。」
木下ほうかさんのいう「面白い」は素晴らしいことという意味に感じました。
木下ほうかさんは、骨髄移植のドナー登録よりだいぶ前から、臓器提供の意思表示カードを提供るる臓器「すべて」丸を付け、もっているそうです。
死んでしまえばただの肉と骨だし、灰になるなら、せめて人の役に立つ方が、「面白いな」と献体登録もしてあるそうです。
木下ほうかさんは
「もし自分に家族がいて、最愛の娘が死んだとします。その体を全部燃やすより、一部が、知らない誰かの中で生き続けられたとしたら、そっちの方が魅力的じゃないのかなって思います。」
と考えているそうです。
確かに、大切な人が誰かの中で生き続けられたら、うれしいかもしれないと思いました。
木下ほうかさんは
『骨髄移植が何をすることなのか、わかってなくて移植って聞くだけで「怖いことじゃないか」「知らない人のためになんで?」となってしまうんです』と話しています。
確かに知らないから、わからないから反対ってよくあったりしますよね。
木下ほうかさんは、実際に骨髄移植の提供を経験され、全身麻酔や太い針で刺されることなど、それなりにしんどかったそうですが、後遺症や術後の痛みは「えっ、何かやったの?」というくらい、全くなかったそうです。
これには個人差があり、多少違和感が残ったり、痛みがあることもあるようです。
骨髄提供後、赤十字の講演依頼があり、講演では骨髄提供は大したことはなかったということと、登録する時はいい加減でいいということを強めに言っているそうです。
登録する時と提供する時は時間がずれていて、気持ちが変わっていることもあるからなんだそうです。
体験者の意見は説得力がありますよね!
ご本人から手紙が来たとき、やってよかったとすごく思ったそうです。
提供しても、結果は教えてもらえないし、うまくいかない可能性もあるため、治療は失敗したと思っていたそうです。
提供してから1年近く経って患者さんから手紙が届いたそうです。
ご本人と奥様から感謝の気持ちが綴られていて、「あー、生きていて良かったなあ、僕の骨髄も役に立ったんだ」と思うと、うれしくて涙が出たそうです。
その手紙を「僕の宝物」と話す、木下ほうかさんは、素敵だと思いました。
それ以降は通知がなく、提供できる年齢を過ぎてしまったそうです。
木下ほうかさんは骨髄バンクアンバサダーとしてPR活動を続けられています。
まとめ
今回は木下ほうかさんについてお伝えしました。
高校時代は剃り込みを入れたいわゆるヤンキーファッションだったようですが、不良であったというよりは当時の流行のファッションをしていただけだったようです。
趣味の一つが献血で、これまでに60回もの献血をされています。
さらに骨髄バンクに登録し、骨髄移植の提供もされていました。
提供できる年齢を超えてしまったそうですが、骨髄バンクアンバサダーとしてPR活動を続けられています。
献血だけでも大きな人助けをされていますが、さらに骨髄移植をされていたことを知り、木下ほうかさんはすごい人だったんだと感動しました。
これからは応援したいと思います。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。